タツヤのプロフィール
はじめまして!
タツヤです。
私は東京在住の1985年生まれ、2023年現在東京の不動産ファンドに勤務する不動産鑑定士です!
ebayでの実績は、8か月で月利100万円、1年5か月経過した2022年の9月には月利150万円を超えました。
その後もサブアカウントを開設しつつ売上げを伸ばしています。
実は本業の仕事自体は、かなり激務に分類される業界です。
そんな中、ebayを副業で始めてからつまづくことなく売上げを伸ばしてこれたのは、
「家庭が崩壊してしまったが故に本業の仕事以外の時間をebayにコミットすることができた」
ことが要因かもしれません。
順風満帆に見えた人生からどん底を経験し、そこから復活するために自分に力をくれたebay輸出の魅力を発信したいと思す。
そんな自分がどんな人生を送ってきたのか、簡単にご紹介したいと思います。
タツヤの生い立ち
幼少期~小学生時代
私の出身は、熊本県熊本市です。
若干裕福な家庭に育ったせいか、両親や親戚に甘やかされて育ちました。
我儘で奔放、かつ、自己中心的な性格はこの幼少期の生活が影響しているのかもしれません。
小学校時代は特にこれといって悩むことはなく、トピックはありません笑。
- 学校ではみんな仲が良く、プライベートも充実。
- 剣道では出場する大会ほとんど優勝で、小学生にも関わらず毎回友人宅で宴会。
- 家庭でも甘やかされて欲しいものはなんでも買ってもらえる。
こんな感じで今思うと恵まれた環境に育ったなと思います。
今思うと、小学校時代は大学時代に次ぐ黄金時代であったと思っています。
中学生時代
中学生では、身長が伸びず小さく、また、当時は華奢で女の子に間違えられるような弱弱しい感じであったこともあり、いじめられたりもしました。
中学生ではバレーボール部に入ったのですが、身長が小さすぎて(中学3年生まで155センチくらい)アタッカーにはなれず、リベロという守り専門のポジションを務めていました(しかも補欠)。
チーム自体はかなり強く県大会で優勝するレベルであり、月に部活の休みはほぼなく、週末は田舎の強豪校と練習試合を繰り返す日々を送っていたのです。
当然毎日部活がかなりきつかったこともあり、全く勉強をしなくなりました。
でも、何故かテストではそこそこの成績をとることができ、高校ではそれなりの進学校に進むことになります。
中学校時代は、正直言って部活中心の生活で、その他のことはあまり覚えていません(授業中はほぼ寝ていました)。
高校生時代
高校では、引き続きバレーボール部に所属することになります。
中学校の同級生は、鎮西高校(全国大会で何度も優勝している強豪校)や熊本工業高校(熊本県当時№2)などでエース・キャプテンを務めるなど、目覚ましい活躍をしていました。
かという私も何故か中学校3年生終わりから身長が急に伸び始め、この頃、現在と同じ173㎝程度の身長になったのです。
部活でもレギュラーとなり、少しは活躍できたのがうれしかった。
高校生になって部活が少し楽になったこともあり、初恋も経験しました。
今となってはいい思い出です。
ただ、学校には夕方に部活をするためにだけ行くなど、勉強は無駄だから一切しないという半ぐれモードに突入した時期でもありました。
この高校時代に若干人間関係構築に難がある人間に変容してしまったような気がしています。
家庭は皆高学歴であったのですが、私だけ地元の遊び人が通う大学に進学することになります。
大学生時代
大学生時代は、髪を伸ばしてみたかった思いもあり部活はしませんでした。
でも、部活がなくなった途端自分の中で夢中になれるものがなくなってしまいました。
そんな時出会ったのがRockでした。
私は実はもともと小学校時代にバイオリンを習っていました(今は弾けないと思います笑)。
もちろん音楽が好き(音楽や美術などの感性が求められる授業は得意)だったため一瞬でのめりこんでいき、ロック同好会というサークルに所属。
結果的に大学時代はこのサークルで遊び惚けることになります。
社会人になってから思うのは、当時出会った仲間たちはみんないい人間ばかりであったということです。
(近年音楽以外の会話は通じなくなっていますが笑)
当時は、1日12時間~15時間程度ギターを弾いていました。
もちろん新たな恋もあり、ギターや、好きな仲間と一緒に過ごす最高の時間を過ごすことができたのが大学生時代です。
小学校時代を超える黄金時代でした。
あの頃が懐かしい。
就職によって知る世の中の摂理
新卒で就職した不動産会社は東証一部上場の大手企業でしたが、恐ろしいほどのブラック企業で全人格労働の日々でした。
営業所内では絶叫・怒号が飛び交い、ありえないほどの理不尽の嵐。
1日に1度は考えられないほどの理不尽が起こる職場でした。
しかも当時入社早々リーマンショックが起きました。
営業所の先輩社員も半年連続で坊主(月の契約が0件で、会社への利益0が半年間)になったりしていましたが、そんな時(11月)営業所長にある激を飛ばされます。
当時の勤務地は、実は東京です。
でも、がむしゃらに仕事をした結果、先輩社員が半年契約なしが続く中、自分だけ11月末から2件契約をすることに成功しました。
(もちろん、単純な運の要素もあります。)
ただ、そんな時
- 顧客を上司から奪われる。
- とってきた契約の数字をすべて上司から奪われる。
こんな感じで、結果を出せば上司から頭を押さえつけられパワハラのオンパレード。
この時、漠然と会社員は無理だ。と考え始めます。
この世の中は危険に満ち溢れている。
ただ、一方で不動産という財産自体は非常に面白いものであると思っていました。
また、ブラック企業ではあったものの、営業力や根性を養う経験ができたこと。
不動産仲介のスキルを学べたことだけはよい点でした。
この会社は不動産鑑定士を目指すために退職することになります。
不動産鑑定士との出会い
自分で不動産仲介の仕組みややり方がわかったため、さらに一歩上のキャリアを考えていた時に「不動産鑑定士」という資格を知りました。
皆さんはご存じないかもしれません。
本当に不動産鑑定士という資格は世の中に認知されていないニッチな資格なのですが、不動産の経済価値を適切に判定し、鑑定評価書というレポートを発行する仕事です。
不動産業界では最高位の難関資格という位置づけで、日本全国の固定資産税等、不動産関連の課税の基礎となる土地の評価などを行っています。
そのほかにも様々な分野で不動産の鑑定評価が用いられているのですが、一般の人がその仕事の結果を目にする機会がないため、認知されていないのです。
10数年前(2009年)当時、自分の地方の地元では不動産鑑定士の年収が1,500万円と言われていました。
自分の不動産仲介のスキルと合わせれば大きく稼ぐことができるのではないか。
そう考えてメーカー営業として働きつつ、毎日平日4~5時間、休日は15時間程度の時間を投下して不動産鑑定士試験に働きながら合格することができました(現在のようにインターネットビジネスで簡単に起業できる雰囲気はありませんでした。)。
2010年頃は不動産鑑定士試験は公認会計士試験より難しいといわれ、難易度が大幅にアップしたといわれていました。
試験学習中、当時勤務していたメーカーでは長崎県を担当し、毎日20時頃まで働きます。
そして、過去の妻である彼女と出会ったのも、このメーカーに転職して福岡に移住してきたこの頃。
仕事、恋愛、試験勉強、すべてに全力で取り組んでいった結果、すべてで結果が出ました。
- 福岡営業所で営業成績1位
- 全国の営業所で営業成績3位
- 結婚
- 難関の不動産鑑定士試験合格
この時は、自分の命を燃やして頑張っていました。
その後さらに地元の不動産鑑定業者に勤務することになります。
不動産鑑定業者への就職
不動産鑑定業はニッチ産業で、いわゆる「証明書を発行するお役所」であり、大手に依頼が集中する傾向にあります。
当時、試験に受かってヤッター!と思っていましたが受かった週の週末には既に大手は応募締め切り。
乗り遅れた私は求人を探していましたが、どの業者も人間を新たに雇う体力もなく困っていました。
が、業界では圧倒的若手である上、不動産に関する経験もあったため、地方(福岡)の準大手鑑定事務所にやとわれることとなります。
が、がですよ、
なんと、不動産業者とは性質が違うもののやはり圧倒的なブラック企業でした。笑
またかよ。笑
具体的には200時間を超える残業とパワハラがある会社でした。
もちろん2年勤め、鑑定士登録を果たした後に速攻で大手不動産鑑定業者に転職することになります。
大手不動産鑑定業者での仕事
私はとある大手不動産鑑定業者の福岡支店で働くことになります。
この会社は初めて働く比較的ホワイトな企業でした(一部を除いて)。
あーやっと、まともな生活を送れる。笑
・定時帰宅可能
・有給全消化可能(しかも日数多い)
・20代にして年収も地方では40代並の収入
・元妻が公務員となり、家族とも関係良好で、毎日が楽しい生活(しかも福岡)
20代前半は本当に滅茶苦茶なブラック企業ばかり経験しましたが、そこでは営業力、鑑定評価書などのドキュメントを作成する力等様々な能力を得た後の
強くてニューゲーム、かつ、優れた雇用条件。
ブラック企業から抜けて、黄金時代に突入します。
しかしながら、この会社にも大きな落とし罠が。。
それは上司ガチャです。
実は、当時不動産鑑定士試験は難易度が高く、試験に受からないまま長い間いわゆる「補助者」として仕事をしている人間がいました。
前の鑑定業者にも同じように補助者がおりましたが、私が大手鑑定業者でやっていた仕事は本流の鑑定の仕事でもなく、固定資産税のコンサルティングなどの
業務であったため、補助者(無資格者)が多かったのです。
しかもこの上司の補助者は全く仕事ができない。
この状況で何が起きたのかというと、
・上司に忖度しない自分の性格
・無資格者の上司のひがみ・やっかみ
これらが合わさって足をひっぱられたり、パワハラが始まったりしました。
やっとホワイト企業に就職したと思ったのに笑。
私は必死に抵抗しましたが、その上司と会社の幹部が血縁関係にあるなどドロドロした人間関係からか
詳しい理由はわかりませんが、私は家族ともども(恐らく)嫌がらせで奈良に転勤強要・異動させられてしまいます。
・上司ガチャ
・転勤強要
ホワイト企業に就職しても、これらのダブルコンボが発生しました。
サラリーマンは限界なのか。
この時、若干ですが独立することも考え始めます。
移転先の奈良では従来通り自分の仕事の能力をいかんなく発揮(奈良は足を引っ張る悪い奴はいませんでした。)し、大きな仕事、難しい仕事ををまかせてもらったりして
それはそれで充実した仕事生活を送ります。
元妻は公務員で2年という長い間育児休暇を取れる関係から転勤強要についても問題はなく、家族帯同で転勤し、大阪、京都、奈良等
で楽しい生活を送ることができました。
しかしながら、その後2年を過ぎて育児休暇期間が終了してもなお、転勤は終わらず、家族は分断されることに。
この大手不動産鑑定業者は、業界の中では一番人気の企業ですが、この企業に就職すること自体絶対にお勧めしません(基本条件はホワイト企業ですが、中身が腐っているからです。)。
会えない時間が募り、家庭が崩壊。
地獄の生活に突入します。
ファンド業界での生活
元々は福岡で、鑑定士と公務員の共働きで小金持ちとして楽しく暮らすのが目的でしたが、離婚してしまったら
もう場所は関係ありません。
家族がいなくなったら、残るのは仕事だけ。
不動産の本流はやはり東京です。
東京で不動産鑑定士としての技能を活かしながら、収入を上げていく。
それがベストであると考えていました(ebay輸出のようなネットビジネスは当時知りませんでした。)。
日本でも有数の大手不動産ファンドに転職完了。
東京での孤独な生活が始まりました。
ファンド業界は動かす金額の大きさが桁違いで、迫力のある仕事でした。
周りのプレイヤーに話を聞いても、皆サラリーマンなのに年収数千万という人が多くいて、刺激の多い生活を過ごすことに。
この時、自分は業界で上り詰める覚悟をします。
一方、大手ファンドに転職したとほぼ同時期にebay輸出を始めます。
この時は大きく稼げるとは思ってもおりませんでしたが、8月で月利100万、その後も少しづつ利益が伸びて150万を突破。
人生が変わった瞬間でした。
現在はさらに他の財閥系不動産ファンドに転職し、さらに自分のキャリアを高めています。
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